【関 修】ジャニーズアイドル”嵐”に筋肉は似合うのか『隣の嵐くん-カリスマなき時代の偶像』

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 「嵐の筋肉」というテーマは果たして適切だろうか。この原稿を依頼された時、真っ先に思い浮かんだのはこうした単純な疑問である。分析してみると、おそらくそれは二重の問いに収斂させることが出来るだろう。まず、嵐というより彼らが属する「ジャニーズ」という文化圏に筋肉が似合うか、という疑念である。

 

 ここでまず、ジャニーズの女性版ともいうべき「宝塚」を考えてみよう。宝塚の花形は「男役」である。また、女役は清楚で純真な趣の女性に限られる。間違っても豊満な肉体という女性性を武器にした団員は存在しない。それが証拠に、彼女ら団員はすべて「乙女」と総称され、それは年配の専科も同様である。ジャニーズもまた、永遠の「少年」を標榜しているのではないだろうか。とすれば、成熟した男性の肉体美である「筋肉」が喚起するイメージは、果たしてジャニーズアイドルにふさわしいものだろうか。

 

  しかし、ジャニーズが多様化の一途を辿っているのも事実である。TOKIOの長瀬智也、山口達也、SMAPの香取慎吾など、筋肉の良く似合うアイドルも存在する。とすれば、ジャニーズの中でも「嵐」には筋肉が似合うか、というさらなる問いが生じてこよう。この際ポイントになるのは、「筋肉」には「裸」が付きものということであろう。例えば、「ミキティー」と雄たけびをあげ、タンクトップ一枚になったり、時にはそれをビリっと破ってみせる筋肉自慢の芸人のように、筋肉を披露するには「裸体」が一番なのだ。

  それはいわゆる「マッチョ」なボディー・ビルダータイプに限定される訳ではない。「フィットネス男子」と銘打ったカレンダーを筆者は購入したが、それは全国の有名なインストラクターたちが被写体である。その写真のほとんどが上半身の裸体で、一時期流行語にもなった「スジ筋」もまた裸体を好むようである。

 

 ジャニーズでも香取慎吾が湿布薬のCMで裸体を披露している。つまり、筋肉は裸でなんぼということである。そう思う時、ジャニーズアイドルの中でも「嵐」ほど裸と縁遠いグループはいないのではないだろうか。タッキーや山Pはもとより、KAT-TUNの亀梨和也でさえ、某家電メーカーのCMで裸になっていたではないか。それに比べ、嵐の誰かが裸で登場するCMを想像することなど出来るだろうか。

  少年は男性へと変容する。この意味で「少年」というカテゴリーが嵐を形容するのにふさわしいかは疑問である。ジャニーズジュニアたちもコンサートなどでよく、上半身裸になったりするものだ。確かに幼児体型ではあるが。おそらく「嵐」というグループは、脱性化(desexualization)、あるいは無性化(asexualization)という男/女という性別に還元されないイメージへと収斂して行くのだろう。

  少年であり続けることは同じ「男」でありながら、「成熟」を拒否することである。それに対し、嵐に成熟=大人になることを否定している風はない。彼らは男性性とは「無縁」、あるいは「無関心」といったポジションにあると言うことが出来よう。フロイトは「愛」の反対感情として二つを挙げている。一つが「憎しみ」であり、愛と憎はコインの表と裏、同じものの二つの側面である、と。これが両価感情、即ちアンビヴァントに他ならない。しかし、フロイトはまったく別の反対感情があると言う。それが「無関心」である。

  つまり、永遠の少年が不可避的に男性化してしまうことへの叶わぬ夢想だとしたら、嵐は性とは「無縁」のニュートラルな存在を偶像(アイドル)化しているのではないか。こうして、老若男女分け隔てなく、国民的アイドルの地位を手にしているのだ。

 

 しかし、実情はより複雑と言える。人間の心理=真理はより微細な差異へと向かうものだ。精神分析で言う「部分対象」、それへの偏愛がフェティシズムである。前述のフィットネス男子のカレンダーには毎月数葉の写真が使われているが、必ずや一枚は服を着たものが使われている。
そう、「筋肉」を連想させる衣服という装置である。露出するのではなく、隠すことでその奥に潜むものへの欲望をかき立てるのだ。あるいはチラリズムのように、見えるか見えないかのギリギリの境界に視線は釘づけになるのである。

 

 こうした側面に目を向けると、嵐において筋肉を連想させるメンバーが確かに存在することに気付くだろう。それは桜井翔である。筋肉を想像させるファッション。それはタイトな身体の線が出やすいものとすぐおかわりになろう。嵐の中で、二宮、相葉は明らかにルージーな服装が多い。大野は趣味の海釣りに行くような、ゆったりとしたTシャツにジーンズといった可動性のあるシンプルな服装である。松本はその個性的な風貌にピッタリのモード系の大胆な服がよくお似合いである。しかし、ファッションそのもの(・・・・)に目がいってしまい、その奥に秘められたものまで視線が届かないのである。彼らに対して、桜井は自身の几帳面な性格さながら、妙に身体の線にフィットする服装をするのだ。派手な人目を引くものとは程遠いトラッドなファッションなのだが、チノパンなどもどこかパツンパツンで、ジャニーズ特有の幼児体型とは明らかに異なった大人の身体を想像させるのである。

 

 そして、極めつけはこうした小さめの服装から帰結するチラリズムにある。『vs嵐』で彼の履いているアンダーウエアの真っ赤な見せゴムが画面に何度となく映し出され、ファンの間で話題になった。すぐさまメーカーが割り出され、「hidden(ヒドゥン) agenda(アジェンダ)」(隠された意図の意)というとてもお洒落でセクシーな下着メーカーのものと判明したのだ。しかも、おそらくは股上の浅いローライズボクサーを着用していたのである。

 

 さらに、筋肉バカ(・・)という言葉があるように、筋肉は知性と相容れないものと思われがちである。しかし実際は、マッスル北村氏や石井直方氏のように、東大出身の知的なビルダーもいらっしゃる。「知的な筋肉」というのは、形容矛盾どころか、筋肉フェチの一つの在り方として脈々とその系譜が存在するのだ。

 筆者が桜井翔に魅かれるのは、どこか杓子定規な硬さを感じる一方で、妙にセクシーな側面が垣間見られるからに他ならない。筋肉を連想させる無造作なファッション。チラリズムのようなディテールへ「筋肉」を収斂させる知性。まだまだ彼から目を離せない。
よって、嵐の筋肉。それは、隠された桜井翔の「それ(エス)(Es)」(=フロイトの言う欲望の原因、無意識の意)ということが出来るのである。

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(文:関 修(せき おさむ))

1961年東京生まれ。千葉大学教育学部卒業。

東洋大学大学院文学研究科博士後期課程(哲学専攻)修了。

現在、明治大学法学部非常勤講師

専門 フランス現代思想 セクシュアリティの視点から見た文化論

(美男論の提唱者として日本のジャニーズウォッチャーの第一人者との声も)

 

著書 『美男論序説』(夏目書房 1996年)

『挑発するセクシュアリティ』(編著 新泉社 2009年)ほか

『隣の嵐くん-カリスマなき時代の偶像』(サイゾー 2014年)

翻訳 オッカンガム『ホモセクシュアルな欲望』(学陽書房 1993年)

サミュエルズ『哲学による精神分析入門』(夏目書房 2005年)

オクサラ『フーコーをどう読むか』(新泉社 2011年)ほか

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